明治から現代へ
現在の麻生区は、江戸時代末期の15の村で構成されています。橘樹(たちばな)郡高石、細山、
金程、五反田の4ヶ村と、都筑(つづき)郡王禅寺、上麻生、下麻生、早野、万福寺、古沢、片平、
五力田、栗木、黒川、岡上の各村です。旧五反田村は東百合丘地区が麻生区に編入されました。
その後、橘樹郡、都筑(つづき)郡の廃止、川崎市への編入、政令指定都市を経て現在の麻生区
が誕生しています。
明治22年(1889年)市制・町村制の実施
市制・町村制の実施により、現在の市内にあった約80の町村が、一つの町と14の村に再編成さ
れました。それらは、橘樹郡の川崎町、大師河原村、田島村、御幸村、日吉村、住吉村、
中原村、高津村、橘村、宮前村、向丘村、生田村、稲田村の1町12ヶ村と都筑郡内の
柿生村と岡上村の2ヶ村です。柿生の地域では、市制・町村制が公布された明治21年
にそれぞれの村の話し合いが進められ、王禅寺、上麻生、下麻生、早野、万福寺、古沢、
五力田、片平、栗木、黒川の10ヶ村が一つにまとまって柿生村が誕生しました。柿生
の村名は禅寺丸柿の生産地であることに由来するものです。
橘樹郡内の高石、細山、金程の三村は生田に編入されました。生田村は江戸時代の五
反田村と上菅生村が合併した明治の初めに生まれた村です。上菅生の「生」と五反田の
「田」を合わせて生田村と名づけられました。
大正13年(1924年)川崎市の誕生
大正13年(1924年)川崎町、大師町、御幸村が合併して川崎市が誕生しました。 神奈川県下では横浜市、横須賀市につぐ3番目の市となりました。
昭和2年(1927年)小田急線開通
小田急が開通して麻生区、多摩区の地域には5つの駅が設けられ ました。それらは、稲田多摩川(現登戸)、稲田登戸(現向丘遊園)、東生田(生田)、 西生田(現読売ランド)、柿生の5駅です。南武線もこの年に川崎-登 戸が開通しています。
昭和13年(1938年)橘樹郡の廃止
川崎市は市勢の発展をはかるため隣接する町村を次々編入し、その結果、 昭和13年(1938年)橘樹郡の名前は消えることになりました。
昭和14年(1939年)柿生村と岡上村、川崎市に
都筑郡では、この年(昭和13年)、郡内11町村長会議が開かれ、柿生村と岡上村
の2村を除く9村が横浜市に合併することを決議しました。昭和14年(1939年)、
柿生村と岡上村は川崎市に合併することになりました。
千年以上にわたり歴史の刻まれてきた都筑郡や橘樹郡、50年間続いた柿生村の名称
もこうして消えることになりました。岡上はこのとき以来、川崎市の飛び地となりまし
た。
昭和35年(1960年)小田急線「百合丘駅」の開設
初めて陳情してから10年たった昭和35年3月、「百合丘駅」が開設されました。 同年8月に公団百合丘第一団地の一部が入居を開始し、昭和36年 10月までに1750世帯の大団地が誕生しました。同年、一帯の町の名前は高石から 「百合丘」に変わりました。
昭和47年(1972年)政令指定都市に
昭和47年(1972年)、川崎市は政令指定都市となり、川崎、幸、中原、高津、 多摩の5区が設置されました。
昭和49年(1974年)小田急「新百合ヶ丘駅」開設
昭和49年(1974年)、小田急「新百合ヶ丘駅」が開設され、また小田急多摩線が開通し、「五月台駅」、 「栗平駅」、「黒川駅」も開設されました。同年、京王相模原線「若葉台駅」も開設されました。
昭和57年(1982年)5区から7区へ、麻生区の誕生
その後、西北部の開発が進み、人口も急増して行政区を
再編成する必要が生じてきました。その結果、昭和57年(1982年)、行政区が5区
から7区に再編成され新しい2つの区が誕生しました。麻生区と宮前区です。麻生区は
多摩区から、宮前区は高津区からそれぞれ分区しました。
東百合丘は生田の一部でしたが、多摩区と麻生区の両方に生田地番が存在するのはま
ぎらわしいということで東百合丘と名づけられました。また、細山、高石、百合丘、多
摩美、千代ヶ丘、金程、向原も旧生田村でした。千代ヶ丘、向原は細山から分離してで
きた町です。
新しい区名は市民から公募されました。応募では「柿生」が最も多かったのですが、
中世から麻生郷と呼ばれ、歴史的にも伝統のある「麻生」の名称が、最終的に区名選定
委員会で選ばれました。
「あさおの歴史」をまとめるにあたり、次の文献を参考にさせていただきました。
[1]高橋嘉彦 「わがまち麻生の歴史 三十三話」
[2]川崎多摩歴史研究会 「かわさき散歩 道と川と山の歴史をたずねて」21世紀川崎フォーラム