室町時代、安土桃山時代
足利尊氏と新田義貞
元弘2年(1332年)、後醍醐天皇は再度倒幕に失敗し、隠岐へ配流
されます。そんな中、幕府の御家人だった足利尊氏が京都で倒幕側につき、後醍醐天皇
をたすけて六波羅探題を攻めます。一方、関東では上野国(群馬県)の新田義貞が倒幕
のため鎌倉を攻めます。
元弘3年(1333年)、幕府の北条高時は、新田義貞を迎え撃つため、多摩丘陵
一帯に幕府軍を送ります。幕府軍は小沢城と関戸城(小沢城の西4キロメートル
)に兵を集めました。また、菅の寿福寺や極楽寺、柿生の王禅寺にも兵を置きました。
新田氏の軍勢は武蔵の国府のあった府中に陣をしきました。決戦は、両陣営の間を
流れる多摩川の分倍河原付近で行われました。激戦となりましたが、新田軍が勝ち、
幕府軍は敗走しました。このとき、寿福寺や極楽寺、王禅寺は新田軍によって放火
焼失されました。
その後、新田義貞は鎌倉街道を進撃し、鎌倉に入って北条氏を滅ぼします。
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇は新しい政治を開始しました
(建武の新政)。足利尊氏は倒幕の功労者として武蔵国と伊豆国を与えられ、川
崎の市域は尊氏の所領となりました。足利尊氏の「所領目録」は現存する文献の中で
麻生郷の名がみられる最も古い記録です。鎌倉幕府が滅亡した元弘3年のものと考え
られます。尊氏に与えられた所領の一つに「武蔵国麻生郷時顕」がありました。
麻生郷の下に書かれている時顕は以前の領主の名前です。このころの麻生郷の範囲は、
麻生、万福寺、王禅寺村と言われています。中世には、このほか、黒川郷、片平郷、
小沢郷などの郷名がみられます。
王禅寺
王禅寺は真言宗豊山派の古刹で、本尊は聖観音菩薩です。寺伝によれば、孝謙天皇の
757年に天皇の夢のお告げから、武蔵国都筑郡二本松の岩窟で聖観音菩薩が掘り出さ
れ、堂舎を創建したことに始まったといわれています。延喜21年
(921年)高野山三世・無空上人によって開山され、東国鎮護の勅願寺となりました。
このとき、寺号を「王禅」と名づけられました。
「星宿山」の山号は、堂舎を創建したとき毎夜のように天から星が降り、光明が
あたり一面を照らし、里人から「星降山」と呼ばれるようになり、やがて「星宿山(せ
いしゅくざん)」となったといわれています。一番上の写真は王禅寺の仁王門です。
そこに「星宿山」の文字が読み取れます。2番目の写真は観音堂で、3番目は本堂です。
鎌倉進攻の新田義貞軍によって王禅寺は焼き尽くされています。建徳元年(
1370年)になり、勅命を受けた久良岐郡金沢称名寺の等海上人
によって再興されました。
等海上人は、戦乱で消失した本堂を再建するために、良質な材木を求めて山中に
はいったところ、丸柿の実を発見しました。この丸柿の木を寺の庭に移植
したと伝えられています。境内には、いまでも柿の古木が残っており、「禅寺丸之記」
を刻んだ石碑と歌人・北原白秋直筆による歌碑が立てられています(4番目の写真)。
歌碑には次のようにしるされています。
柿生ふる 柿生の里
名のみかは 禅寺丸柿
山柿の赤きを 見れば
まつぶさに 秋は闌けたり
寺の庭に移植された丸柿は「王禅寺丸柿」と呼ばれて周辺の村々に広まり、その枝を 接ぎ木して育てられました。その後、「王」と「柿」が略されて「禅寺丸」と呼ばれる ようになりました。
小田原北条氏
戦国時代になると、小田原の北条早雲(鎌倉時代の北条家と区別して後北条氏、また
は小田原北条氏と呼ばれる)が関東地方に進出する拠点として枡形城、小沢城が整備さ
れました。
享禄3年(1530年)には、小沢原(万福寺付近と言われています。)で北条氏と
上杉氏との激しい戦いがありましたが、北条方が勝利を納めました。千代ヶ丘に勝坂と
呼ばれる坂がありますが(写真左)、戦いに勝利した北条郡の兵士が勝どきをあげながらこのあた
りの坂を駆け上ったのでその名がついたと、言い伝えがあります。上麻生の山口には小
沢原の合戦のときに食糧を蓄え、炊飯の場に使われたと伝えられる「膳部谷戸」や「武
器を隠し、武士たちもかくれた「かくれ谷戸」があったそうです。上麻生3丁目の「隠れ
谷(やと)公園」にその名をとどめています。
早雲は相模国と武蔵国の南部(川崎市、横浜市)を平定すると、家
督を氏綱に譲って伊豆に引退し、永正16年(1519年)に病死しました。
北条家三代目の氏康は、永禄2年(1559年)に「小田原衆所領役帳」を作成
しました。この年までの検地をもとに、家臣の知行高を定めました。麻生区
に関する郷村名を抜粋すると次のようなものがあります。ただし、軍団(衆)別になっ
ていますので、これで全てということにはなりません。
黒川、片平郷、麻生、万福寺、奈良岡上、王禅寺(麻生の内)、小沢郷、菅生郷内、 早野郷
天下統一へ
織田信長は天正1年(1573年)、将軍足利義昭を京都から追放し、室町幕府が滅
亡します。、織田信長が東への圧力を急速に強めていきましたが、本能寺の変で明智光
秀にうたれてしまいます。天下統一の事業は豊臣秀吉に引き継がれ、秀吉は関東を制覇
するために、小田原を攻めます。
中世の麻生郷に含まれる地域(郷・村)の名がはっきり分かる史料は、天正18年(
1590年)豊臣秀吉が小田原城を攻めたときに出された禁制(高札)です。禁制は
後北条氏の領国に向けて大量に出されました。その内容は「兵士や
供の者が郷村の住民に乱暴狼藉をしたり、放火したり、不当なことをいったりしないよ
うに」というもので、麻生郷内ではの次の九箇所です。
王禅寺村、古沢村、万福寺村、片平之郷、黒金之郷、石川之郷、三輪之郷、荏田之郷、大棚之郷
これによると麻生郷の範囲はかなり不明確の把握されていた様子が窺えます。
秀吉により、約100年、関東に君臨した小田原北条氏も滅亡されました。