小田急線「新百合ヶ丘駅」周辺を中心にした
川崎市麻生区のタウンガイド「新百合ヶ丘ライフ」です

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あさおの歴史

鎌倉時代

頼朝、義経、弁慶

 治承4年(1180年)に伊豆で平氏打倒の兵をあげた源頼朝は、建久3年(1192年) 征夷大将軍になり鎌倉幕府が成立しました。
 源頼朝の異母弟として生まれ、平家討伐の旗頭として活躍しながら、兄の頼朝によっ て現在の東北地方に追われ、若くして命を絶った武将源義経と従者弁慶にまつわる伝説 が、多摩丘陵に多く残されています。麻生区に関連するものとして次のようなものがあ ります。

鍋ころがし

弁慶の「鍋ころがし」伝説の残る「団地坂上」付近  バス停「団地坂上」の南下の旧崖を「鍋ころがし」といいます。鎌倉幕府ができる少 し前、義経・弁慶が奥州から鎌倉へ急ぐ途中、ここを通過したときのことです。 切り立った尾根道を馬に乗り、崖を越えるとき、名馬に乗っていた義経はなんなく 越えました。ところが、弁慶が乗っていた馬は崖を踏み外しそうになって、 鞍の後ろにくくりつけておいた鍋のひもが切れて、鍋ががけ下の 谷底に消えていった、という伝承に由来しています。

弁慶の二枚橋

弁慶が作ったという伝説のある二枚橋  平家打倒をめざして源頼朝が挙兵したとき、奥州平泉にいた弟義経が、武蔵坊弁 慶や伊勢三郎らを連れて平泉から鎌倉へ駆けつけました。一行が、五反田川に かかっている橋を渡ろうとしましたが、腐っていて 渡ることができません。弁慶らは付近の農民の助けを借りて、川をまたいで新しい丸太を何本 も並べて縄でしばりその上に土をもりました。
 横から橋を眺めると、のし餅を二枚重ねたように見えたので、二枚橋 という名がつきました。二枚橋は「読売ランド前駅」近くの津久井道の丁字路を県道稲城・読売 ランド前停車場線に入り50mほどのところにあります。

頼朝ゆかりの夏蒐山(なつかりざん)修廣寺

頼朝ゆかりの修廣寺  源頼朝は、夏のある日、この寺を本陣にして大規模な巻き狩り( 四方から遠巻きにして行う狩)をしました。数百人の勢子を従えて猪、鹿、雉、兎など の動物を追い、獲物をとった、と「皇国地誌」にあります。夏に狩をしたということか ら山号が生まれたのだそうです。
 修廣寺は、津久井道を「片平」信号で五月台の方へ曲がり、200m行ったところで 左折し奥まったところにあります。

九郎明神社

義経を祀っている九郎明神社  明治21年の「古沢村地誌」には「九郎社 祭神源義経 社格村社」とかかれ、源義 経を祀っていると言われています。伝説によれば義経一行がここを通った際、一夜の宿 のお礼にと鉄の扇を置いていった話があり、長い間、その扇が神社に残っていたとされ ています。
 九郎明神社は「五月台駅」北口から北に400mの里山の中にあります。

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小山田一族

 稲毛三郎重成と小山田一族は鎌倉時代の武士の中で、麻生区・多摩区に関係の深い武士です。 重成は小山田一族の出身で、小山田一族は、武蔵国で最大の同族的 な武士団である秩父一族の流れをくみ、父有重の時代に秩父から武蔵国多麻郡小山田に進出してき ました。
 小山田荘は町田市のほぼ全域に広がり、黒川村、王禅寺村までも含まれていた時代もあります。
 小山田有重には五男があり、長子太郎は若くして他界し、残る四人は二郎重義、稲毛三 郎重成、榛谷四郎重朝、森五郎行重です。

 頼朝の有力御家人となってからの重成は天暦元年(1184年)一の谷の合戦に参戦したり、 文治5年(1189年)には頼朝が みずから大軍を率いて奥州攻略(藤原泰衡征討)したときも出陣しています。 このとき、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしました。重成は北条時政の娘( 頼朝の妻政子の妹)を妻に迎えています。

枡形山広福寺  源頼朝が都での基盤を固めるために京の都に入ったのは、建久元年(1190年) でした。武士団の中には北条義時、畠山重忠、梶原景時、稲毛三郎重成 らとともに、鴨志田十郎、奈良五郎、石河六郎、江田小次郎、都筑三郎ら も加わっていました。これらの武士の姓は横浜市緑区の奈良、鴨志田、荏田(江田)、 石川(石河)や旧都筑郡の都筑など麻生区周辺の地名や旧郡名であることがわかります。

 稲毛三郎重成の本拠地は枡形山(多摩区生田緑地内)の周辺で、そのふもとにある広福寺に 重成の館が、枡形山の頂上には枡形城がありました。写真上が枡形山の山頂で、写真下が 広福寺です。
 重成の嫡子小沢小太郎重政は枡形山から北西に約4キロの地点に小沢城(稲城市矢野 口と多摩区菅にまたがっている)を構えました。重政の領地は、多摩区菅地区、麻生区細山、 千代ヶ丘、金程の地域と稲城市矢野口周辺といわれています。
 元久2年(1205年)、重成とその子の小沢小太郎重政は謀反のかどで討たれ稲毛 氏は滅びました。

月読神社常安寺  鎌倉時代、麻生の亀井原にも山城があったと伝えられています。亀井原は月読神社に 隣接する台地です。室町時代になると、ここに麻生郷の領主小島佐渡守が館を構え、月 読神社(写真左)と常安寺(写真右日)を建立したと伝えられています。
 月読神社は横浜上麻生道路の麻生台団地入口の信号を、また常安寺は同じ道路の亀井橋信号のあたりを北側に 入ったところにあります。

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